阿呆ロートルの隠れ家 NZ250 神格化計画

最凶鈴菌の誉れ高い NZ250 と戯れる、カルトでコアなアジトです

NZ250 とはっ!?

1986年 わずかに1470台のみの生産と言われる絶滅危惧車。

WEB上でも情報を得ることの難しい「超弩級」の稀少車。

後継モデルとしてGooseを紹介している場合も少なくないが、

全てにおいて互換性はなく、「龍」と「蛇」ほど差があるにも拘らず勘違いされている。

まさに、孤高の存在。

 

おいらは、このNZの魔性の魅力に憑りつかれ、何となくカスタムを始めた初代に引続き、今回2台目を捕獲するに至りました。

 

現行の何故か”R”を冠した”CBR250R”や、旧来のフリークが認めない”Ninja”をぶら下げた見かけ倒しの"Ninja250"のカタログスペックを上回る"NZ250"。

正常進化して、血統が絶えなかったら、変態SUZUKIはどんなMCを産出したでしょう。

時代に尻尾を振って、"GSR250"のようなハッタリバイク作るようでは、もはや社会復帰リハビリ中にしか見えません。

勿論、誰が乗っても安全で、絶対速度よりも実用域での快適さを求めるのは已むを得ません。そうしないと今の飽きっぽく、トレンドに流されることが楽しい消費者から見てもらうこともないのです。

でも、バイクって、元々は単なる移動手段から、カウンターカルチャーでストイックな個性豊かな孤高の趣味・・・言い換えれば、「生き様」の具現化のためのアイテムだったはずです。侍の腰のもののように、いつも研ぎ澄まし、「寄らば斬るっ!」的な危険なオーラをまとったものであったはずです。

 

確かに、おいらたちロートルの責任は重大です。

調子に乗って、はじけすぎた感は否めません。「走り屋」も「珍走団」も「レーサー」も、一般市民からすれば同じに見えるでしょう。ブームに乗ってあちこちの峠を閉鎖に追い込んだのもおいらたちの悪行にほかなりません。

 

自制心も多少は身に付きました。それなりに大人になって、しっかりMCと向き合えるようになりました。人の親となり、子供と走る日を夢見ているおやぢです。

「命を削る」スリルを味あわせたい訳ではありません。ただ、本質のボケた「それなりの」ものでまるめこまれるようだと、遊園地のゴーカートで十分でしょう。

 

NZ250は間違いなく本物です。

 

おいらを含む大衆は、その時代のトレンドでNZ250を黙殺しました。

キャブも専用設計。一見チープに見える足回りでも車格やスペックから見れば過不足ありません。こだわり続けるVJ21は別格として、手当たり次第に500台以上の単車を乗り継いできたおいらだから断言できます。

これほど懐が深く、乗り手を選ばない単亀頭ロードスポーツは存在しません。

潜在能力をフルに引き出し、現在のパーツでチューンしていけば、市街地・ショートコースでは「ネ申」になれる唯一無二の存在です。

 

現在、NSR80、CBX125F、VT250F、GPX250RII、ジェベル200、そしてVJ21を乗り回す阿呆ロートルの率直な感想です。

信じる信じないはお好きなように・・・

 

NZ250 について感じたこと、思うことをこの「神殿」に書き連ねることにします。